くるりくるりと回る水から、目が離せない。
「何だって、そう熱心に見ているんだ」
半ば呆れた、でも少し愛しさが混ざっているように見える苦笑と共に彼に言われたのは、いつ頃だったろう。はっきりとは思い出せないけれど、もう随分と前の事だ。それでも、その時の彼の表情や声の調子は、鮮やかに思い出せる。
ついさっきの、出来事のように。
彼の言った通り、熱心に見ている必要など無い。全自動なのだから、汚れ物と洗剤を入れてボタンをポンと押せば、後は勝手にやってくれる。家事など一切しない、キッチンでは電子レンジしか使えないバンコランにだって、手順を教えればやれるだろう。後は、数十分後に妙にメロディアスなアラームが鳴るまで、フィガロの相手をするなり、雑誌をめくるなり、お茶を飲むなり、とにかく他のことをして過ごせばいい。
だのにぼくは、日課のように日々、ここにこうして立ち尽くしている。
ぐるぐると水を回す洗濯機の前に立って小さなプラスチックの窓から中を覗いていても、ぼくは何の役にも立たない。
それは十分に分かっているのに、洗濯機が動き始めるとついここにやってきて、回る水を覗き込んでしまう。洗剤の白い泡にまみれて回っている、フィガロのスタイや小さな肌着、ぼくのシャツ、彼のソックス。ぼくら三人が、この部屋の住人である証のように、家族である象徴のように、清潔に洗い上げられていくそれらから目が離せない。
もともと、彼の部屋にあった家電製品は、型が少し旧く機能もシンプルな物ばかりだった。食事は外食、家事もハウスキーパー任せ、テレビもあまり見ないという生活だった彼は、家電に興味も関心も無かった。ここにある物はみな、彼が選んだものではなく、マンション購入を斡旋したMI6御用達の不動産屋が気を利かせて必要最低限のものを用意したのだと聞いた。
ぼくがこの部屋へ通うようになり、暮らしが同棲に近づくにつれて、主に顧みられることなくほこりを被っていたそれら(ぼくらが出会う前の、相当数いるであろう歴代の彼の恋人だった少年たちは総じて彼の家での家事には興味がなかったらしい)が脚光を浴び始めた。お酒とミネラルウォーターしか冷やしたことのなかった冷蔵庫に、野菜や卵、調味料が収まり、ここへの引っ越しを手伝った部下が一度使ったきりだという電子レンジとコーヒーには、ほぼ毎日電源が入れられるようになった。今、僕とフィガロが毎朝飲むジュースを作るのに使っているミキサーなどは、
「そんな物があったのか、初めて見たぞ」
と、彼が言ったほどだった。
事実、新品の状態で戸棚の奥に入っていたのだから、見たことがなくとも無理はない。忙しい彼と出来る限りふたりきりで居たがったぼくが、一週間の苦悩の後狙い澄ましたタイミングと決死の覚悟で、
「ぼくが作るから部屋で食事をとらない?」
と言い出すまで、この部屋のキッチンは彼がお酒をグラスに注ぐ所でしかなかったのだ。
そして、僕がアパートを引き払って荷物をすべてこの部屋へ置き、毎晩帰るようになった数ヶ月後、洗濯機がぱたりと動かなくなった。他の家電同様、極シンプルなもので、乾燥機能もついていなかったそれは、スーツを常用するバンコランが自宅で洗濯をする習慣自体持っておらず、衣類やタオル、リネン類もすべてクリーニングに出していた為、ぼくが最初に見たときには使用された形跡が全くといっていいほどなかった。
ぼくも最初は彼の流儀に従っていたけれど、彼とは違って下着を身につける習慣があるし、ソックスやタオル類までクリーニングに出すのはかえって面倒に思えて、次第にそのシンプルな洗濯機を使うようになった。すると、彼もそれを便利に思ったのだろう。スーツやコート、セーターなどのクリーニングに出した方が良いもの以外はぼく任せてくれるようになった。食事の件同様、所帯じみたまねを疎まれるのではないかと内心おびえていただけに、ひどく嬉しかった。
そんな矢先、洗濯機はぱたりと沈黙してしまった。
バンコランにそのことを伝えると、次の休みにでも、適当な物を見繕ってこいと言われた。彼が一人で暮らすには不必要な洗濯機。新しいものを買ってくるということは、ぼくがまだここにいていい証拠。自分でも驚くほど、安心を覚えた。
ぼくは、何かにつけて自信がない。
彼に愛されているという自信。
ここにいていいという自信。
ずっと、彼と共にあれるという自信。
そのどれもを、持つことが出来ず、些細な出来事に証を見つけて一人で喜んでいる。それは、バンコランと長い間を共に過ごし、フィガロというぼくら二人の子供を奇跡のように授かった今でも、驚くほどに変わらない。
バカみたいだと、自分でも思う。
そんなにも、彼を信じられないのかと呆れもする。
でも、違う。
ぼくが何より信じられないのは自分自身。
ほら、今だって疑っている。
バンコランがぼくらの暮らしのために買ってくれた洗濯機の中で、彼や息子や自分自身の服と一緒にぐるぐると回る水を見ながら。
ぼくは一体いつまでここにいられるんだろうか。
この水のように、やがてはここを出て汚水として流れてゆき、蒸発して消えてなくなるのじゃないか。
彼にも、息子にも忘れ去られて。
まだ早い午後の光がバスルームの窓から差し込んでいるのに、ぼくの表情は、きっと驚くほど暗い。